三国志で有名有能な人物といえば、諸葛亮がいます。
諸葛亮は、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将・政治家・軍師です。
諸葛亮(しょかつりょう)。字は孔明(こうめい)。
流浪の英雄『劉備』に仕え、自らの命数を削りながらも蜀漢を支え続けた忠臣中の忠臣でした。
そう、彼は文字通り、自らの命を削りながら仕事をしていたのです。
扇子片手に優雅に静かに指示を出しているイメージの諸葛亮ですが、彼は実は過労死をしていたのではないかという説があるそうです。
この記事は、諸葛亮ほど有能で立派な人でも過労で倒れることがあるから、私たちも気を付けようね!という大げさな記事です。
諸葛亮は過労に倒れていた!
諸葛亮と言えば、三国志演義では祈祷で風を吹かせたり、神算鬼謀で敵を翻弄するスーパースターです。しかし、そんな彼も晩年は人材不足からくる仕事の掛け持ちで激務の日々が続いていたそう。
まって、現代にも通ずる…!組織の仕組みづくりの甘さから有能な人に重圧がのしかかっていくのは今も昔も変わらないんですね。
諸葛亮が過労に倒れるまでの流れ
197年。諸葛亮が19歳のときに「三顧の礼」により劉備に仕え始めます。
仕え始めた頃は決断などは劉備がやってくれるために、諸葛亮は意見をするだけでよかったといわれています。もちろん進言もしていたそうですが、却下もされていたそう。この時、劉備40代、諸葛亮20代ですから責任は劉備が背負うのは当然でしょう。
さらに、関羽、張飛、趙雲などの猛将と呼ばれる人物がいたのも心強かったはずです。
208年。赤壁の戦い後は黄忠や馬良が部下になり、武官や文官などの人材が揃ってきます。そして軍略に関しては龐統と法正が担当してくれるようになりました。
214年。劉備が、益州に攻め込んだ際に、龐統は流れ矢に当たってしまい戦死してしまいました。
悲しい。結果的に益州は獲れたのですが龐統を失ってしまったのは大きかったはずです。
マジか…
龐統の死後、法正が軍略を担当する事になりました。
法正が軍略を立て、黄忠の活躍などもあり、劉備は曹操軍を定軍山の戦いで破り漢中を手にしました。
この時は蜀は最も人材が充実していて、諸葛亮も政治に集中することができました。
めっちゃ助かる。得意な政治に集中しよ
220年。法正が44歳の若さで病死します。若い。若すぎる。……こちらも過労が原因と言われています。
定軍山の戦いあたりで、作戦の立案から現場指揮まで全部やっていたそう…40代とかいう働き盛りで過労死…リアルすぎる。
マジか…
五虎将軍と言うのは、三国志演義にのみ登場する名前ですが、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の5人を指します。
こちらも戦死、病死、部下の裏切りなどがあり趙雲を残して星になります。
最悪です。
長年に渡り蜀を支えてきたベテラン将軍たちの相次ぐ死は、蜀にとっての打撃が大きかったはずですし、諸葛亮に取ってみても痛かったはずです。
いよいよもってしんどい…
関羽と張飛が無くなると大抵の作品で劉備の様子がおかしくなります。
復讐に燃え、関羽を討った呉に夷陵の戦いを挑み、呉の軍師陸遜に大敗します。(法正が生きていたらこんなことにはならなかったのに…と諸葛亮も思ったそうな)
また軍略の才のあった黄権を孤立させ、魏に降らせてしまうという失態もおかしています。(貴重な人材が…!!)
そしてなにより劉備も敗北のショックからなのか、223年に白帝城で崩御しています。
この時に、劉備は諸葛亮に後を託しています。
そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ
諸葛亮は涙を流して「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取りました。
諸葛亮42歳の時でした。
劉備の息子の劉禅は祭祀などは行ったようですが、政治や軍事の決断は諸葛亮が判断する事になりました。
自分の判断一つで、国が滅んでしまうわけですから、諸葛亮には相当なプレッシャーがあったはずです。
蜀の全盛期の頃であれば丞相として国内を固めるだけで良かったのかも知れませんが、龐統と法正が死んでしまった事で軍略も担当しなければならなくなります。
さらに、自ら兵士を率いて戦場に行ったりもしているわけです。また、帳簿の管理や刑罰の判断、首都の警備に行政、そのすべてを朝早くから夜遅くまでしていました。
丞相(内閣総理大臣)
禄尚書事(皇帝への上奏文を管理する尚書をまとめる役職)
仮節(軍令を犯した者を処罰できる裁判官)
司隷校尉(首都周辺を警備したり行政を担当)
軍師(実際に前線で軍を指揮する)
(いや、異常すぎる。兼任しすぎだし、個人に権力を集中させすぎでは…)
諸葛亮は最後に五丈原の戦いで、司馬懿と対峙していましたが、その時の生活の様子は下記のようだったとされています。
朝早くから夜遅くまで仕事をしている。20以上の鞭打ちの刑罰については自ら判断している。食事の量も少ない
これを聞いた司馬懿は「諸葛亮は長くはもつまい。まもなく死ぬだろう」と過労死を予言しました。(ぶっちゃけ私でもわかるレベル)
234年。享年53歳。司馬懿の予言どおりに諸葛亮は陣中で没します。
うーん、限界…
もともと政治は抜群に上手いけれど、軍務には向かない人物だったという説もあります。慣れない業務をすることは、ストレスだったのではいでしょうか。いやストレスだったに違いない!!(断言)
当時の人間として特別に早世してしまったわけではありませんが、諸葛亮の激動の人生を追っていくと過重労働が彼の死を早めてしまったのだという思いがどうしても拭い去れません。
責任感の強さが死期を早めた
働き過ぎてしまった諸葛亮ですが、人材不足とは言え、劉備没後の蜀には有能な人材が幾人もいました。
諸葛亮が自分の死後、丞相に指名した蒋琬(しょうえん)や費禕(ひい)、董允(とういん)など政治に優れた人物。
軍事面では魏延ぎえんを筆頭に王平(おうへい)や張翼(ちょうよく)、張嶷(ちょうぎょく)、姜維(きょうい)など優れた将軍たちもいたのです。
他の人に任せても良い仕事まで自分でやってしまった結果、諸葛亮は過労で倒れることになったのです。
自分がすべてやらなければならない!の思い込みは禁物。適材適所で分担してこその組織です。それで倒れていては元も子もありません。
初心忘るべからず
諸葛亮は晩年、帳簿の管理のような細かい仕事まで行っていましたが、若いころはそんな働き方をしていませんでした。
全体的な判断を自分がして、細かいところは部下に任せればいいと考え、大要を掴んで深くまで追求しない姿勢でした。
それにも関わず、この頃の諸葛亮は既に初心を忘れたかの如く仕事中毒になっていました。
実際に、帳簿の確認までしているのを楊顒(ようぎょう)という人に指摘されるエピソードも残っています。
人の仕事までやらずに、自分の仕事をしろ
なんか気になってやっちゃうんです。放っといて
こんなかんじ。指摘をされて尚、諸葛亮は働き方を改めることが出来なかったのです。
初心を忘れずに、大要を掴んで深くまで追求しない。それが管理職の理想の働き方ですね。
現代日本にも通ずる諸葛亮の働き方
諸葛亮の働き方はなにも三国時代だからこそ起きたことではありません。現代日本にめちゃくちゃ通じると思います。
と、いうのもたまたま三国志のゲームをしていてそこでの諸葛亮の活躍と過労に震えた社畜私がこんな記事をまとめたくなるぐらいには感情移入したのですから!
あるところにのんびり暮らしていた孔明さんがいました。
人徳のある社長に見出され、ちょっと大変そうと思いながらも株式会社蜀で働きます。
優れた内務能力を買われ、入社数年で法務や人事といった社内業務を一手に引き受ける立場にまで抜擢され、日々活躍していました。
しかし、やがて社長が退陣。
その後を追うように社内の有力者が次々と会社を辞めていってしまうと、後を任せられる人材も無く、仕方なく現場の指揮も見なくてはならなくなりました。
元々不慣れな現場の管理。しかもそれまで行っていた社内業務も、これまでと変わらず管理していなければいけません。
長年の経験と持ち前の才能で人並み以上の仕事はできましたが、やはり、大きな成果をあげることはできませんでした。
目まぐるしく働いているうちに、孔明さんは働きすぎと重圧による心労で倒れてしまったのです。
………。そういうことです。
惜しい人を失った…なんて言われないために、他の人に仕事を振りましょう!!やりすぎ注意!!私たちが倒れようと国は傾かないし、会社も倒産するわけじゃないんだから!!自分で自分を守ろう!!
さて、諸葛亮は元々は部下に仕事をふれる人だったはずなのに、晩年はそれが出来なくなってしまったのはなぜなのか考えてみました。
劉備が死の間際に言った「蜀と劉禅を頼む」という言葉の責任をあまりに背負ってしまったのかなと思います。
責任感の強い、真面目な人ほど、過労や過度な重圧に見舞われてしまうことが多いと思います。
歴史に残る天才の諸葛亮ですら、働きすぎては倒れてしまうのだから凡人の私たちはそれこそ気を付けなければいけないなぁと思うのです。
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